【中坊いろはにほへと】
中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年8月2日 - )は、日本の元弁護士(廃業前は大阪弁護士会に所属)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)特別顧問。 「平成の鬼平」と呼ばれたが、住宅金融債権管理機構の債権回収で不適切な回収が行われたことが公になり、この責任をとる形で弁護士を廃業。
1954年 3回目24歳にして司法試験合格、翌年に司法修習生(9期)となるも給料はすべて自分の小遣い、父親を騙して無心と放蕩三昧の日々を送る。
1957年 2年間の司法修習生活を終え「イソ弁」(居候弁護士の意)に。遊び癖が抜けなくて遊蕩三昧、月末は困窮。
1959年2月 婚約時からあまり良い顔をしてなかった両親と嫁の仲がそぐわず、結婚を機会に家から離れ、冷蔵庫無し、TV無し、二間、台所、トイレ、洗濯機付の新居で新婚生活スタート。依存意識を断ち切るために実家からの干渉はすべて拒む。
同年4月に独立し大阪に事務所を構えるも閑古鳥が鳴き、事務所でひねもすタバコを吸うかパチンコをして過ごす。
同年暮れ、帳簿の決算をしていたら何度計算しても残高が預り金に足りないことに気づき真っ青になる。
1960年 事務所存亡の危機になるも町工場の債権処理の依頼を受け、自ら町工場に出向き工員と経営者を直接指導し仕事を手伝い工場再建のメドをつけ、債権者と話し合い和議に至る。これをきっかけに事務所に仕事がくるようになり現場主義に目覚める。
1962年 東京オリンピック開催に伴う東海道新幹線の高架敷設による立ち退き問題で京都にある小売市場の自治会役員が中坊の事務所を訪ねる。約20店の店子とその家族と共に補償問題が解決するまで工事を行わないよう(建前上は)実力行使も辞さない構えを取り、強行着工してきた場合には「男は一歩引いて、まずは女達に任せろ」と中坊が指示、店子達はその言葉を額面通り受けてしまい強行着工の連絡を受けて現場に駆けつけた中坊は、子供を背負った店子の女性達が重機に立ち向かう光景を見て真っ青になる。こうした運動の結果、国鉄(現JR)と直接交渉の場を得る。
1973年 森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団長を引き受ける。同年4月大阪地方裁判所にて第一回口頭弁論に立つも持参の弁論原稿は読まずに被害者訪問の報告結果を約40分述べて途中で裁判長が落涙しかける(一審で勝訴の判決を得る)。その後裁判は毎月2日、終日開廷というハイペースで進み、会議、調査、資料作成打ち合わせに忙殺された中坊は入眠困難、味覚障害などの体調及び精神面での障害を起こす。
『中坊公平・私の事件簿』 2000年、集英社
『金ではなく鉄として』 2002年、岩波書店
『現場に神宿る』 2006年、現代人文社
『住専を忘れるな〜中坊公平が語る正義の回収〜』 岩波ブックレット
『中坊公平という現場』 五月書房
『道理に生きる』 PHP研究所
『罪なくして罰せず』 朝日新聞社
『中坊公平の「人間力」』
『野戦の指揮官・中坊公平』 日本放送協会‖著 日本放送出版協会
『中坊公平への手紙』 佐高信‖著 毎日新聞社
『中坊公平の修羅に入る』 高尾義彦‖著 毎日新聞社
『中坊公平の闘い』 藤井良広‖著 日本経済新聞社
☆出展:Wikipedia☆