【戦国期の中坊氏】 大和の乱世は南和の越智氏と北和の筒井氏が対立、国衆は越智党と筒井党に分かれて抗争が繰り返された。室町時代以後、中坊氏は筒井氏の配下にあった。応仁の乱以来戦国時代初期にかけて、越智党の優勢が続き、没落を続けている筒井党のうちに中坊の名が見えている。やがて、畠山氏、細川氏らの内訌に乗じて、筒井党は復活を遂げてくるが、天文年間(1532〜54)、順昭の時代になると大和一国を統一する勢いを示すようになる。  順昭の台頭は山内の簀川(須川)城攻めにはじまった。簀川城主の簀川氏は古市氏に属し、筒井氏に味方する狭川氏と敵対関係にあった。天文十二年四月、順昭は簀川城を攻撃、簀川父子を討ち取った。筒井衆も手負い衆は限りなくあったというが、そのなかで中坊某が討死している。その後、順昭は越智氏の貝吹城を攻め、さらに十市氏の城を攻略したが、覇業なかばの天文十九年に病死してしまった。  永禄二年八月、三好長慶の重臣松永久秀が大和に侵入してきた。当時、筒井氏は若年の順慶を叔父の順政、福住・中坊氏らが支えていた。翌年三月、久秀は井戸氏の拠る井戸城を攻撃、順政は救援に駆け付けたが敗れ井戸城は陥落した。同八年十二月、筒井方の攻撃で井戸城を奪い返したが、中坊駿河守が二千ばかりの軍勢をもって井戸氏を援助している。。  この直後の『多聞院日記』には、「中坊藤松殿十五歳で始めて陣に在る」と記されている。ついで永禄十二年の条には「中坊藤松殿龍雲院に於て、得度在之、英祐」とみえ、翌十三年の条には「蜂起始如例在之、中坊飛騨守始テ出仕云々」とみえる。以上『多聞院日記』には、中坊飛騨守英祐が成人・出家のうえ官符衆徒として成長してゆく過程がうかがわれる。飛騨守英祐は駿河守の息男であったものであろう。ついで、同記元亀二年(1571)の条には、「中坊飛騨守男子誕生付、両種・樽一荷遣之」とある。この飛騨守の子は英祐の子秀政と思われる。 ☆出展:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakabo_k.html☆