永禄十一年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、松永久秀はただちに信長に通じて大和経略を許された。順慶も信長に通じようとしたが許されず、筒井氏は苦闘の時代が続いた。その後、久秀は武田信玄に通じて信長に反旗を翻すなどしたが、滅亡にはいたらず信長麾下にあった。天正二年(1574)正月、中坊飛騨守は筒井順慶の織田信長への接近の足固めのために岐阜の信長のところに上り、その一ヵ月後に筒井順慶は岐阜へと向かっている。  天正四年、原田直政が大和守護に任じられたが、ほどなく本願寺との戦いで直政は戦死、そのあとの大和守護は筒井順慶が任じられた。一方、松永久秀はふたたび信長に謀叛を起し、信貴山城を攻められて滅亡した。かくして、苦難の末に順慶は大和一国の支配者となったのである。天正十年。本能寺の変で信長が横死、つづく山崎の合戦を制した羽柴(豊臣)秀吉が天下人に出頭すると、順慶は秀吉からも大和一国の支配を安堵された。  天正十二年、筒井順慶が病死すると、養子定次が家督を継いだ。そして同十三年、伊賀上野城へ転封となると、中坊飛騨守は家老として伊賀国へ従った。ところが、伊賀に移ってから以後筒井定次は酒色に耽り、やがて人心が離れていった。天正十五年二月には、筒井家の重臣森好高、ついで同年三月には松倉重政、次いで翌十六年二月には島左近父子が筒井家を去り、あとに残った大和以来の重臣は中坊氏くらいであった。  その後、慶長五年(1600)に関ヶ原の合戦が起ると、筒井定次は東軍として行動し、西軍方の島左近の軍とも戦った。戦後、定次は伊賀一国を安堵されたが、遊興は止むことがなく、政道も不平が多く、家臣も互いに確執するところがあった。かくして、慶長十三年(1608)六月、中坊秀祐はこれを駿河に訴えたため、筒井氏は改易、定次は陸奥岩城の鳥居氏に預けられた。 ☆出展:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakabo_k.html☆